「工房からの風」を終えて

工房からの風。
風と凪。

工房からの風を終えて、今は凪の状態にあるる私。

私は、言葉にならない感性の琴線に触れる何かを感じた時が、人と作品の本当の出会いだと常々思っている。

自分の小さな作品が、工房からの風で初めて出会う誰かの感性の琴線を少しでも震わせることができたなら、
出展した意味が大いにあったということだ。

作品との出会いは決して難しいものではない。
だが、琴線が震えなければ、目の前に作品があっても出会ったことにはならない。
運命の一目惚れのように、目が離せず、思わず手にもって引き寄せたくなる···
そんな出会いが、工房からの風で「確かにあった」と思いたい。

とても有意義な二日間だった。

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この有意義な二日間のために、長期間に渡りサポートしてくださったディレクターを初め事務局の皆様、風人の皆様、心より感謝申し上げます。
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さて、ここからは少々長い私の独り言。
私が記録しておきたいことなので、読んでもつまらないかもしれません···


二日間、絶え間なくお客様に作品を見ていただいたのだが、
何故か、あの忙しい中で、ふと思いを馳せたのが、ディドロ(Denis Diderot)のこと。

今や研究者しか読まないだろうディドロの
『La Religieuse』(修道女)という作品の、
視覚的な描写について、一時期考えたことがあった。

修道院に入れられたシュザンヌという女の子が、過激ないじめにあって、最後は修道院を抜け出し死んでしまうという、ストーリーはそれほど面白くない作品なのだが···

ところで、18世紀のフランス小説は、Prévost(アベ・プレヴォー)の『Manon Lescaut』(マノン·レスコー)に見られるように、視覚的な描写は殆どないのが特徴である。
描写がないから、騎士デ·グリューを虜にしたマノンの容姿は、どこまで読んでもよく分からない。

そのような小説が多い中で、
ディドロの小説は少し違っていて、主人公のシュザンヌが、まるで舞踏を踊っているかのようなシーンが描かれる。
特に動的なシーンに視覚的な描写が盛り込まれているのである。
舞踏というのは、読んだ私の感想でしかないが、この不思議な面白い表現のもとは、
ディドロの美術評論『Salons』(サロン)にある。

ディドロは、友人のグリム(Grimm)が発行する『correspondance litteraire』という雑誌に、サロン評を寄稿していた。
ディドロは特にグルーズ(Greuze)の作品を好み、人物の感情を顕に表現した感傷的な作品に対して、それに劣らぬくらい自身の考えと思いを感傷的に書き綴っているのが読んでいて面白い。

ディドロのサロン評は、友人のグリムにあてて書かれている。
「サロンの絵を実際に見ていない君の前に、まるで絵が目の前にあるかのように、グリム、君に絵を語ろう」と、
ディドロは言葉で絵を描いてみせるのである。

そのサロン評で培った表現が、小説『修道女』によく表れる。
ディドロは小説を絵が何枚も何枚も連続して現れる幻灯のような、今で言えば映画のようなものを書こうとしていたのだろう。

19世紀のバルザックやゾラなどのリアリズム小説に先立つ作品と位置付けられることもあるが、私は何となく違うと思う。

ディドロのリアリズムは、絵画からヒントを得た独特の表現なのである。
ディドロは絵画が面白いと思えば、それを小説に取り入れたり、『アラビアンナイト』が面白いと思えば、その語りと構造を取り入れて小説を書いた。

当時、何故ディドロで論文を書こうと思ったのか、我ながら情けないことに良くわからなかったのだが、
工房からの風の二日の間に、何故か気づいたのである。

ディドロは、難しい哲学者ではなく、とても独創的で個性的で面白い人だったのだと。
そこに、私は惹かれたのだと。
何かを面白いと思ったら、それをマニエリスティックに作品に盛り込む、素晴らしいチャレンジ精神、その精神に奇妙に共感したのである。


工房からの風で、何故か私はディドロと頭の中で再会を果たしたのだった···

今や『salons 』も電子テクストで簡単に読める時代。
いつか、また読もう!

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